『遠慮は無用』
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なぜこんなにも胸がどきどきするのでしょうか?
ええ、理由は分かっています。
まだ教室に来ておられないあの方が原因です。
私の中で去年までこの日は父や親戚といった、身近な男の方に感謝の想いを込めてチョコを渡す日だったのですが、
今年からはそうではないのです。
世間一般と同じ意味を持ったのです。
そうです、私は好きな人が出来たのです
「はよっ」
泉さんとつかささんと共にあの方が教室に入ってこられました。
私は鞄に入れておいた小さな箱を取り出すといつもの様に、教室での集合場所になっている泉さんの席に向いました。
「おはようございます」
「おはよ〜」
「ゆきちゃん、おはよ〜」
私達は次々と朝の挨拶を交わします。
「おはよう、みゆきさん」
どきっ
「お、おはよう、ございます! シンさん!」
お、お、おかしいです………。
あの方はいつもと同じで笑顔で私にあいさつをしただけなのに、私の心はいつも以上にざわめいています。
こ、これが、バレンタインという日の独特の空気といったものなのでしょうか?
とても苦しいです
でもとても嬉しいです
本などを読んでそういう感情は知っていたつもりだったのですが、想像していたものよりはるかに違います。
凄い動悸の激しさです
「つかささん、どうかなされたのですか?」
チョコを渡すのをどう切り出そうかと思案していた私は、つかささんの表情が優れない事に気付きました。
「う、うん、ちょっとね………」
つかささんは困った、曖昧な笑顔を私の方に返してこられます。
「……まさか、シンさんはチョコを受け取らなかったのですか?」
事情が事情なだけに私は小声でつかささんに尋ねます。
私と泉さんとつかささんそしてここにおられませんが、かがみさんは皆あの方を慕っています。
それは友人というだけでなく異性として
そのつかささんがこんな顔をなさっている、そして今日という日を考えれば推察は難しくないです。
つかささんで駄目だったのですか………
私は愕然とした思いがしました。
去年頂いたのですが、つかささんの手作りチョコはとても素晴らしいものでした。
味も形もラッピングも、店に置いてあるものとなんら遜色がなく、何よりもつかささんの作られたチョコには真心がこもっていました。
恐らくあの方に渡されたチョコはあれ以上の出来だったはずです。
そしてつかささんの持っておられる優しく、人を癒す雰囲気、それでもあの方に気持ちが届かないなんて………
私のチョコではますます………
いえ、そんな事よりもつかささんのお気持ちを考えると、とても笑顔であの方にチョコを渡す事なんて出来ません。
「あっ、そ、そうじゃないんだよ!」
私の表情から察したのかつかささんが、小さく手を振ります。
「シンちゃん、チョコはちゃんと受け取ってくれたんだよ。
……でもわたしが、その、納得できない渡し方だったから………」
「そ、そうだったんですか………」
つかささんの寂しそうな顔を見ると私はそれしか言う事ができませんでした。
私が何を言ってもつかささんの悔いを消す事は出来ないからです。
「みゆきさん、シンになにか用があるんじゃないの?」
泉さんの方を見ると、小さくアイコンタクをしてこられました。
ですが………
「そうなのか?」
「い、いえ、と、特には…ないです」
つかささんの気持ちを思うと、私はチョコをあの方に渡す事は出来ませんでした。