●今回のおしながき

■登場人物:やまと、シン & モブ
■話の長さ:とりあえず長いです(おおよそ1時間半〜2時間程度)
■内容成分:熱血5・自転車3・APPEND1.7・純愛0.3
■重要事項:ほぼ自転車の話です。興味のない方すみません。





永森劇場APPEND エピソード1.2









『……別れよう』



唐突に切り出されたその言葉。
携帯電話を握りしめて、私はただ息を飲む。

 

「……………」

 

紡ごうとした言葉が宙に舞う。
36年という月日を重ねても、こういう時どうして良いのかが解らない。


唐突に、切り出されたその言葉。


唐突に?
本当に、唐突に?


そんな訳がない、本当は解ってた。


その言葉は、そう遠くない将来に必ず私を打ちのめすだろうと。
ただ互いの顔を見ることもなく、携帯電話ごしに放たれるとは思っていなかったけれども。

 

「……うん、わかった」
「……ごめんね、色々」

「私といても退屈だった、でしょう?」

 

その問いかけに応じることはなく、耳に当てたスピーカーから響く連続したビープ音。
重苦しい、灼熱めいたため息が「はぁぁぁ……」と長く、長く放たれる。

 

―――――みじめだ。

 

割と真剣な恋だった。
36歳という年齢もあってか、女としての全てを賭けて注ぎ込んだ想いだった。


それがこんな簡単にあっけなく。
笑ってしまうほど無様に砕け散った。

 

『アナタ、もういくつになるの?いい加減に孫の顔を見せて、お母さんを安心させて頂戴』
『こっちに残って結婚した○子ちゃんなんてもう、二人目産んで幸せそうにしてるのよ?』

『少しは見習って頂戴な』

 

ここ最近の母親の口癖が頭蓋の中でスーパーボールみたいに乱反射する。
理不尽なその言葉の破壊力に、くらくらと目眩を覚えてしまう。

私が学生時代の頃の口癖は、『○子ちゃんみたいになってはダメ。必死に勉強なさい』だったくせに。

今になっての手のひら返し。
それが私の脳髄を焼き斬る苦しみを与えると知ってか知らず、か。



――――みじめだ。
――――くやしい。



………わかっては、いる。
母に悪気など、ないのだ。

ただ人として、母として。
当然すぎる欲求を自然に口にしているだけ。


そしてその当然すらままならない、今の自分の不甲斐なさ。
勉強は自分自身で自己完結できても、こればかりはそうはいかない。

そればかりを、勉強ばかりをただ黙々とこなして結果を出して。
ただそればかりに人生の全てを費やして、他者を追い越しては悦に入っていた。


周りを見下して、ほくそ笑んでいた下衆な自分への手痛いしっぺ返し。

 

それがこんなにも、重く。
こんなにも、熱く苦しい。

 

――――みっともない。
――――死にたいくらい、みじめだ。

 


でも、涙は出ない。
こんなにも泣きたいのに、どうしたって涙は出ない。

 

素直に泣けなくなってしまったのは、一体いつからだろうか?
……いくら記憶をたどっても、もうそれは解らない。



――――くやしい。



どうして私は。
こんなふうに、なっちゃったのかな。


どこで私は。
歩みを違えてしまったのかな。

 

空を仰ぐ。

 

――――どこまでも澄んだ青空。
――――天高く浮かぶ千切れ雲。

 

漏れる苦笑。


場違いな程、心地良く。
綺麗で爽快な、その空。

 

はは、この上なくみじめd……。

 


――――――――――ばちっ!

 


………………なんだ?

今、何か後ろで弾けたような?

 



――――――――――ばちばちばちっ!


 


「ちょ………何っ?」

 


何かが。
近づいて。

 

来る。

 

来る、来る、来る。

 


“何か”が、来る。

 


心の奥底から感じる異質な“何か”。
全身が泡立つ感覚にぶるっ、と身震いしてしまう。

 


――――――――――――っ!!

 

 

その時、後方から感じた“何か”。
異質な“熱さ”を纏った“何か”。

“それ”が、近づいて来る。

 


――――ばっ!!

 

 

思わず体ごと振り返る。
その姿を視界に捉えた瞬間、電撃がこの身を貫いた気さえした。

 


輝く白と紫の自転車。


    風にたなびく薄茶色の髪。

 


高校生とおぼしき女の子。
顔を下げたまま、気持ち良いくらい力強くペダルを“回して”いる。

 

小気味良いリズムで繰り返される呼吸。

         躍動感溢れる、細身ながらも力強いその四肢。

 


そう、その凛とした姿は。
例えるなら、まさに“深淵を刺し穿つ者”。

 


私の心の“深淵を刺し穿つ”、その姿は。
一言で言うのなら、それは“威風堂々”。

 


目を奪われるとは、きっとこういうことを言うのだろう。
何でだろう、その姿に釘付けになってしまって離れない。

 


――――がばっ!

 


見とれるくらいに綺麗な髪が宙で踊り、顔が上がる。

そして彼女の瞳が前方を射抜く。

 


う、わぁ………………っ!

 


思わず絶句してしまう。




        
―――――なんて瞳をしているのだろう……!


 


凛として、輝かしく。
雄々しくもあり、恋する乙女のようでもあり。

 

―――――っ。

 

呼吸が上手に出来ない。
何なんだ、この感情は。

私の人生の中でも経験がない、この感情の昂りは何なんだ。

 

―――――っ。

 

少女が通りすぎる。
凛とした瞳でまっすぐ前だけを見据えながら。

 


「………ごくっ」

 


―――――唾を飲み込む。

 


「…………っ………………っ」

 

何かを叫ぼうとしたけど、まるで声が出ない。
それはあたかも喉が張り付いてしまったよう。


思えば、大声を出すなんてどれくらいぶりだろうか?
考えてみると、それはかなり恥ずかしい行為のような気がする。

 

―――――すぅ、大きく息を吸い込む。
―――――ぎゅっ、と拳を握りしめる。

 

…………はは、そんなの知ったことか。

 


―――――そして、今、力の限り。
        ありったけの勇気を振り絞って。

 

 

「……………がんばれぇぇぇっ!!!!」

 

 


走り去る少女の背中へ想いを乗せて叫ぶ。
その凛とした背中に拳を突き出して全力のエール。

 

「がんばれぇぇぇっ!!!!」
「がんばれぇぇぇっ!!!!」

「はぁ、はぁ、はぁっ……!」

 

上がりきった吐息で、思わず走り出してしまった事に今更気づく。


でも、届かないだろう。
今だけ声を張り上げようが、私のような人間の声援など届くはずもない。

 

ふわり。

 

でも、その少女は。
私の声に気付いて、ふっと顔を上げる。

 


ペダリングを緩めることなく上半身を捻り、私を見据える。
ゆるやかなウェーブ掛かった長い綺麗な髪が、ふわりと宙に踊る。


そして、その凛とした瞳で私をまっすぐに見据えて。
流れるように自然な動きで。

 

すっ………と手のひらを私へ向けて。

 

にか、っと元気よく笑って。

 

ぐっ、 と力強く拳を握り締める。

 


「…………っ!」

 


笑顔のまま彼女は、何かを告げようと唇を動かす。


遠くて声は届かないけれど。
その動きだけで、私に“その想い”を伝えてくれる

 

 

『あ な た の 想 い も 届 け て み せ る よ!』と。

 

 

凛々しい笑顔で、そうつぶやく。

 

私に拳を突き出して、さらに力強くぎゅっと握りしめて。
そのまま、とんっ、と自分の胸に拳をあてて。


ふわりとお陽さまの様に微笑む。


その双眸は意思の通った輝きを放ち。
私を捉えて離さない。

 


「はは、は………」

 


身体の芯から沸き起こる身震い。


かっこいい、なぁ。
私もああいうふうに、凛とした女でありたいなぁ。


もう遅いかなぁ。
そんなこと、ないと良いなぁ。

 

「ははは、は………」

 

思わず微笑みがこぼれ落ちる。
こんなふうに笑うのはどれくらいぶりだろうか。

 


「もう、わかんない、や……」


「うぅ、わかん、ない、……や」

 


ぽたぽたと頬を伝う涙。
アスファルトにいくつものシミを作る。


何だ、私。
まだ泣けるんじゃないか。


こんなふうに純粋に。
こんなふうに単純に。

 

勝手に不貞腐れて、勝手に自分を貶めて。
斜に構えて、悲劇ぶって。


そんな『作りあげた自分』を演じたまま、心から笑えるはずも泣けるはずもなかったんだ。
こんな『作りあげた自分』で恋愛を成就させても、すぐに破綻するに決まってたんだ。


「無様でもみじめでも、あるがままの私と」
「一生懸命戦っていかなきゃ、いけなかったんだ」

 

ありがとう。
名前も知らないあの少女。

 

ぎりぎりのところで、何か大事なことを“思い出した”気がする。
それがどれだけ凄いことなのか、私にはわからないけれど。

とてつもなく尊いことだと言う感覚だけはある。

 

ありがとう。
そして、今、願わくば。


何かを目指して、必死に前に進もうとしていたあの少女。
今はもう姿さえ見えない程遠くに駆け抜けて行った少女。

 


出来うるならば、あの子に届いたわたしの想いが。

あの子を突き進める、“力”となりますように。

 


両手で自分を抱きしめるようにして私は祈った。

 


“神様”ではなく、あの子に届けた“私の想い”に力を込めるように祈った。










永森劇場APPEND エピソード1.2
愛 を 私 に : I walk 渡しに






 


「がんばれッ!」

 

額に汗を浮かべたサラリーマンのお兄さんが。
少年のように白い歯を見せて、私に声を掛けてくれる。

 

「がんばるのよッ!」

 

スーパーの袋を揺らしながら白髪のおばあさんが。
孫を慈しむような目で、私に声を掛けてくれる。

 

ありがとう。
ありがとう。


心から『ありがとう』だよ。


大丈夫、絶対私は。
その想いも届けてみせる。


掛けて貰った言葉を胸に刻んで。


与えられるだけの弱虫ではなく。
与えるだけの超人でもなく。


託された想いを胸に抱いて。
掛けられた言葉に奮い立たされて。


その全てを受けとめて、届ける。


私はこれまで以上に、あるがままの私を貫く。


ううん、違う。
違う、違う、違う。


これまで以上に、私は“穿つ”。


困難を。
障壁を。


目の前にそびえ立つその全てを。


この両脚で。
この暴れ馬を御して。


その“深淵を刺し穿つ”。

 

――――シャァァァアアアアアア!!

 

ギアは15T、100rpm/m。
数値はあくまで経験からくる推測値。


ちょい回し過ぎ?
オーバーペース?


………関係ない。
“この子”は回し過ぎるくらいで丁度いい。


時間はたかが一時間。
それだけもてば良いだけの単純な話。

水のボトルだって軽量化のために捨てたいくらいだ。


おっと、いけない。
考え事に思考を割きすぎて、回転が85rpm/mに落ちる。

途端にディープ・ストライカーは、そのフレームの硬さで暴れだし、
私のペダリングの頂点にワンテンポ遅れてガコンガコンとむずがりだす。


それはペダリングの円運動を少しずつずらし、スピードをじわじわと殺していく。

 

「こンの………じゃじゃ馬ッ!」

 

わかってるよ。
別にバテてなんかない。


そんなくだらない自己主張してると。
逆にこっちが君を“喰っちゃう”んだゾ?


――――かち。


ステムに軽く歯を立てる。
陽に照らされた唾液が光を放つ。

ちょっと照れくさいけど、そんなことは気にしてられない。
照れ隠しにもう一度、かちりとステムに喰い付く。


愛する相手にキスするように唇を寄せるのはLOOKだけ。
でも、君はそんなことを望むような子じゃあないよね。

気合入れて、もっとその身を硬めてちょうだい。
そして、私の脚力を一片たりとも余すことなく。


トラクションへと変換して。



………この身を前へと弾き飛ばせッ!!

 


「――――――へへっ!」

 


瞳に力が灯るのが自分でもわかる。
やばい、今日の私はとんでもなく“乗れている”。


かち、しゃ……ぎちん!!


もうひとつギアを跳ね飛ばす。
帰りのことなんか、考えない。

1秒でも早く辿り着けるなら、帰りが1時間増えたって構うもんか。


   
   36km/h
    ピッ!

 

現在の巡航速度は36km/h。
ディープ・ストライカーは抜群のスタビリティで直進し続ける。


それがこの子の特性。


高速になればなるほど、堅牢なアルミフレームは安定性を増し。
私の全力のペダリングをこともなく受け止める。

カーボンの様にたわむことなど絶対にない。
ただ純粋に私の全てを“受け止めて”、そして“弾き返す”。

LOOKの数倍、体力の消耗が激しいという理不尽な代償を支払うことで。
ディープ・ストライカーは、LOOKでは到達できないスピードの向こう側へと私を弾き飛ばす。

 

ならば、その代償を。
私は胸を張って払おう。

 

そう。
粋に、気風良く。

 

今はその“切り札”が、どうしても必要な時なんだ。

 

「お姉ちゃん、がんばれぇっ!」

「がんばれがんばれ、お嬢ちゃんがんばれっ!!」

 

あどけない子供が。
腰が曲がったおじいさんが。


ターマック
舗装路をかすめ飛んで行く私に、ありったけの声援をくれる。

 

ありがとう、みんな。
指先に力がみなぎる。


みんなが私を応援してくれるその想い。
その想いを私はただの燃料なんかにはしない。


そんなもったいないこと、するもんか。

 

「……届けるよ、みんなの想いも」

 

みんなが私に預けてくれた『がんばれ』という想い。
私は最後まで頑張りきって、届けてみせる。


1枚のチケットとたくさんの声。
届けてみせるから。


だから、私はこの瞬間だけは。
どこまでも貪欲であり続ける。

 

その貪欲さが今、私のアイデンティティとなる。
身の程知らずのこの考え方が、私の身を滅ぼす事になろうとも構わない。


一度も身を滅ぼした事がないこの私が、そんなことを心配するほうが。
よっぽどおこがましいっていうんだ。

 

―――――ガコンガコン

 

フレームの不安定な突き上げに苦笑が漏れる。
うん、わかってるってば。


ったく、ちょっとのセンチメンタリズムも許してくれない。
本当に底意地の悪いマシンだよ、君って子は。

 

「だけど、それが今ッ!」


「最高に頼もしいよッ!」

 

ぐっ、と上半身をかがめて空気抵抗を減らし。
私は風を穿ち、その向こう側へ体を捻り込んでいく。


 




左へ緩やかに下っていくコーナー。
車の世界で言うなら“3速全開で抜けるシビれるようなコーナー”。

姿勢を低く、重心を低くして、目一杯速度を乗せて。
しばらく続く見通しの良い直線に備える。


あはは、目眩がするよ。


や、怯んでるとかじゃなくて。


ほんの気の迷いで貫いていたこだわりが。
最後まで根拠なく貫き続けたこだわりが。


この時。
この瞬間。

 

私を、スピードの向こう側へいざなう“切り札”となってくれるなんて、ね。

 


「………直線、行くよ?」

 


――――――ばっ!

 


ハンドルから両手を離す。

 

手放し状態になっても、速度が乗りに乗ったディープ・ストライカーは、
私が見据える遥か先を目指して、まっすぐ駆け抜ける。

アルミフレームのスタビリティに、全身が泡立つ。


宙に浮いたこの両腕。
それを受け止めるのは、ブルホーンハンドルの付け根にボルト止めされた二本の角。


その付け根に備え付けられた科学繊維で仕立てられたパッドに、両腕をL字に畳みこむようにして載せ。
そのまま、ぐっと体重を掛けて、前屈みの姿勢のまま安定させる。

二本の角の先端を軽く握り締め、首を上げ前方を睨む。


この“二本の角”は、極限まで空気抵抗を減らした姿勢を不快感なく長時間維持し、
肘をパッドに載せることで、上半身をしっかりとマシンにマウントすることが出来る。


私の“切り札”はコレだ。


極限まで空気抵抗を減らし、高効率でペダリングのパワーを伝達させることが出来る“もう一対のハンドル”。

 

公式戦では使用が禁じられて久しい、“ダウンヒル・バー”。

 

カテゴライズされた中で輝くLOOKとは異なって。
レギュレーションの枠から解き放たれてこそ、“君”は気高く美しい。


そうだ。
そんな枠なんか、壊してしまえ。


私の脚と。
君の魂で。

 

全部、刺し穿って、突き抜けてしまえば良い。

 


――――そうだよね。

 

 

――――ディープ・ストライカー。

 



届けると決めた。
必ず届けると決めたんだ。


かけがえのない“この想い”を。
たとえこの身を滅ぼすとしても。

 


…………私は届けると決めたんだ。

 


――――ぞくぞくぞくっ

 


うっわ、鳥肌すっごい立ってる。

 


にやりと口の端が吊り上がって行く。
興奮で捻り出された笑顔。

武者震いで、奥歯がかちかちと鳴り響く。

 


あん、もぉ、たまんないっ。

 


この上なく固定された上半身。
かつてないほどのホールド感。


それは文字通りまさにマシンと一体化して。


一つの塊となった私の。
自由に稼働する唯一の機関を。

 

困難を。

障壁を。

 

全てを刺し穿つために装備された“唯一の動力”を。

 

私のこの“両脚”を。

 

今まさに、この瞬間。

 

解き放って、踏みしめる。

 


全ては今。

 

 


「この瞬間のためにッ!!」

 

 

――――――がっ!

      ギチギチッ

 

突き抜ける程に、踏み抜いたペダル。
急激に入力された推進力にチェーンが悲鳴を上げて軋む。


構わない。
それで千切れるようなら、私は“君”に失望するだけだよ。


回させてよ。

もっと、もっと。

 

見せてよ。

私に、スピードの向こう側を。

 


――――ギチギチギチ……ガッ……

 

 

「私を失望させないでッ!ディープ・ストライカーッ!!」

 

 

右足を蹴りあげ、左足を捻り込む。
手加減なんか一切しない。

君が私を見定めて不満をこぼすように。
私も君を見定めているんだってことを。


        ・・
私のマシンなら、そこを絶対に忘れて欲しくないんだよッ!

 


「私の想いに!」
「応えろッ!ディープ・ストライカーッ!!」

 


左足を蹴りあげ、右足を再度捻り込む。

 


――――ジャ………ッ!シャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!

 


行き場をなくしたチェーンがフリーホイールに駆動力を伝達させ。
リアタイヤが目を覚まし、狂ったように踊り狂う。


エアロスポークが空気を切り刻み、轟音を立てる。
目がくらむような加速が私のお腹の底をヒュンと撫で上げる。

 

“私の信頼に応えてくれた”

 

――――ぷっ


思わず吹き出してしまう。


ふふ、ははは。
あははははは。


苦笑がこぼれ落ちる。


違う違う。
これはそんなんじゃない。

 

これは単純に、“プライドを傷つけられて、激昂してる”んだ。

 

…………この子はそういう子なんだ。

 

どこまでも純粋で、どこまでも気高く。
そしてこの上なく底意地が悪いマシン。


“私のマシン”だなんて、とんでもない話だ。
この子はどこまでも、この子であろうとする。



気高く、誇り高い。

最高の暴れ馬だよ、君は。

 


――――――ゴォォォォオオオッ

 


切り裂いた空気が耳元で鳴り響く。


反則なほどガッチリと上半身を固定された状態での完成されたペダリングの円運動。
コレ以上期待の出来ないレベルのエアロダイナミクス。

言うなればディープ・ストライカー“エアロモード”。


直線専用の戦闘機っていうのは伊達じゃないよ。
ヒルクライマーの私を、この速度域まで押し上げるポテンシャル。


最高だよ、君は。


いつもの5倍くらい気力体力を消耗してしまうけど、このスピードの快感を考慮したら、
そのレートは決して高くない。

むしろ、破格と言っても過言じゃあない。


だって、今もう、メーターを見てる余裕すらないもん。
体感では40km/hをゆうに超えてる。


視界の隅に入り込む街並みが灰色に溶けて。
風を斬る音をバックミュージックにして後方に弾き飛ばす。


この感覚。
この快感。

 

たまらない。

 

好き。

 


大好き。

 

 

ねぇ、もう一度言わせて。

 

 

―――――最高だよ、君は。







                    ターマック
姿勢を低く屈めたまま速度を乗せに乗せ、舗装路をか細いタイヤで切り裂くように疾走する。


両腕をパッドに乗せたまま、ダウンヒルバーの先端を軽く握って右へと体重移動。
緩やかに右へと、マシンは軌道を変える。

視界に飛び込んでくる、長く連なった自動車の列。
ブレーキランプが重なり合うように灯った渋滞の列。

目の前のハッチバックコンパクトカーもブレーキランプを赤く灯らせ、速度を落として停車する。


ここいら辺で屈指の渋滞ポイント。
通称『レッドカーペット』。


ラジオの渋滞情報の常連道路で、「今日も○○通りは赤い蝶が群れをなして羽を休めています」なんて
パーソナリティさんが冗談を飛ばすことでも有名で、地元民もネタに事欠かないとか何とか。

それはあながち大げさな話でもない。
なぜなら渋滞の先頭は、いつだって県外なのだから。

 

でも、まぁ。
うん、そうだね。


    
――――“私たち”には関係ない。

 

片側2車線の車道の左側端。
私たち“交通弱者”のために確保されたこの場所。

自転車、人力車、牛馬のたぐい。
我々交通弱者は、天下の公道の端っこを。

車道では、ここのみ走ることを許可されている。


 

この狭い左側端。



「………充分過ぎるよ」


 

こんだけの広さを独占して疾走できるなんて、実際のロードレースでは極めて稀だ。
むしろこれは『気分が良い』クラス。

 

―――――シャァァァァアアアアッ!!

 

赤い光を視界の右端で滑らすようにして、走る。
速度を乗せたまま、気分良く。

 

もう既に私の心境は。
このままどこまでも走り続けていたい、とまで思うようにすらなっている。

 



 


「…………むw」

 

100メートル先の信号が黄色に変わる。
何と言う空気の読めなさだろうか。


うん。
冗談はさておき、だよ。

ここまで伸ばした速度を落としたくない。

 

………落としたくない、が。

 

対向車線に連なる右折待ちの車を見て、断念する。
このまま突っ込めば、多分衝突は避けられない。

対向車のドライバーが私に気付いてくれたとしても
まさか自転車がこの速度で走ってくるとは思ってないだろうし。


優先権は直進の私にあるとしても。
ここは止まらざるを得ない、かな。

 


「……………ディープ・ストライカー。制動、行くよ」

 


両手をダウンヒルバーから離して、ブルホーンハンドルのブレーキブランケットを握り直す。
右ブレーキレバー全体を内側いっぱいに捻り込んで、3段軽いギアへと跳ね飛ばす。


そのまま両腕を突っ張って、太ももの内側でサドルの先端を抑えこむようにして。


じんわり、と。
ブレーキシューをていねいにリムに当てるように、ブレーキを握り締める。

 

――――ザッ


シャァァ―――――――――!

 

それでも細いタイヤは容易に摩擦を失い、姿勢を乱す。

慣性の法則で、リアタイヤが浮き上がりそうになるのを、
両腕をしっかり伸ばして、太ももでサドルを押さえつけることで堪える。

さすが底意地の悪いマシン。
このじゃじゃ馬は、制動するだけでも私の全力を要求してくる。


シャ、ジャ、ジャ!!

 

ブレーキを繊細にコントロールしてタイヤがロックする寸前の制動力をキープしたまま
停止線へと滑りこむ。

 

――――かちかち、しゃっ、ぎちん!

 

ペダルをちょこんと突っ掛けるように漕いで、
2段ギアを軽い方へ跳ね飛ばす。

 

ぎゅ、っとブレーキを握り締める。
タイヤが徐々にその勢いを緩めながら、マシンは停止線に滑りこんで行く。

 

 

―――――ばっ!

 


左手を伸ばして。

 


―――――がっ!

 


道路標識の支柱を掴んでマシンを完全に停止させる。

 

 

「…………………ふー」

 

 

――――うん、あぶなかった(笑)

 

さすがカチカチのアルミフレーム。
滑り出したら止まらない。


カーボンみたいに猫脚っぽくねばったりは全然しないんだね。

や、知ってたけど。


………知ってたけどっw
ここまでとか思ってなかったからっw


むぅ、恥ずかしさで頬が染まってくのが 自分でもわかるゾw


ふー……。落ち着け、私。
チキンレースをしてる訳でもないんだし、次はもう少し余裕を持たせて止まろう。

そうだ、そうしよう。うん。



「………よ、っと」


 

ビンディングをペダルから外すことなく、標識にもたれ掛かる。
そして右手でポケットから携帯電話を取り出す。


この前ノリで機種変更したスマートフォン。


地図アプリを起動して現在位置をトレース。
アタマで完璧に把握してるとは言え、やっぱり実際に目で確認して、現状を理解したいんだ。


うん、そうそう。
ここが行程のおよそ半分。


信じられない。
それで、“このタイム”だよ。


今までのレコードにつけた差の単位が、“秒”じゃなくて“分”だよ。

 

乗り手が同じとは思えないほどの圧倒的な差。

 

これが“直線専用戦闘機”。
直線にのみ特化させたマシンならではだね。


でも私がこの子と羽ばたける場所は直線のみ。

例えば、この前LOOKと登ったあの激坂だったら、1/3も走ったところでヘバって脚をつくだろう。
そしてそのまま倒れこんでゲーゲー胃の中のもの全部出し尽くすまで吐くんだ。


自信あるよ、残念だけど。

 

そこで一瞬。
ホント一瞬。

この手の話に思い当たる何かが脳裏をかすめた気がして。
でもいくら記憶を辿っても思い当たることがなくて。


やりようのない寂しさで途方にくれそうになる。

 


―――――ブロォォォン

 


私の右側で車の列が進行を始める。
あ、いけない、青だった。


んっ、と小さく咳払いして思考をリセット。


ごくり、と一口ボトルの水分を胃に流し込み。
私は道路標識に添えた手に力を込めて、ぐいっとマシンを押し出す。


どさくさにまぎれつつもギアはローまでちゃんと落した。
このまま一気に加速できる。

 

そのまま両脚を鬼回転させ、右ブレーキレバー先端に装備された変速用レバーを中指で小さく2クリックする。


―――――カツ、カツ
―――――シャ、ジャキジャキン!


ワイヤーを介してリアディレイラーが、 2段ハイ側へチェーンを誘う。
チェーンは実にスムーズに誘われたギアへと吸い込まれていく。


すごいね、ティアグラ。
フラッグシップモデルのデュラエース(旧型)と比べてもそんなに遜色ないよ。

さっすが世界のシマノ。
自転車部品の世界シェア率90%は伊達じゃない。


って、何言ってんだ私は。
んんっ!、ともう一発咳払い。

 

「…………よしっ」

 

ブルホーンハンドルを握り締め、立ち上がる。
私の得意技、ダンシング。

軽量であることから、通常より心肺機能への負担が少ないことを利用して
結構な頻度で立ち上がることが、私が私を速く走らせるストラテジー。


それは何も坂だけの話じゃあない。
こうして一気に加速を稼ぐ時にも、私のダンシングは武器になる。

筋骨隆々とした一流のスプリンターにはとても及ばなくても。
こうして何度も何度も立ち上がることができるのは立派な武器なんだ。

 

一気に加速を乗せ、もう一度あの速度域まで戻さないとね。

 

信号が赤になるタイミングまでは、計算の立てようがないんだもの。
何度停車することになっても、こうしてダンシングで一気に加速することで、振り出しに戻さなければならない。

 

そうすることで、心を折られないようにしないといけない。

 

想いを無駄にするわけにはいかない。
私には託された大事なものがあるんだ。


1枚のチケット。
みんなの声。

笑顔。


そして、勇気。

 

何度だって立ち上がってみせるよ。
何度だって、何度だって。

 


何度でもこの子をトップスピードへと導いてみせる。
折れない心で、立ち上がり続けてみせる。


 




渋滞に巻き込まれ膠着状態の車の列を置き去りにして。
私は姿勢を低くしたまま、独り別世界の速度域で疾走する。


時間的に充分マージンは稼げてる。
でも緩めない。


稼げてるけど、緩めない。

 

ここで緩めたら、私に掛けてくれた数々の言葉に顔向けが出来ない。

 

行けるなら行く。
進めるだけ進む。


ただ、それだけ。


パッドに重心を掛けて、身体全体で 左から右へとなめらかに重心移動。
ダウンヒルバーを軽く握り、左右に連続するコーナーを抜けていく。

ペダリングは無論止めることなく。
速度は一切落とさない。


全ての脆弱を削ぎ落とし、タイムを削り取っていく。


それは別に、タイムのためだけではなく。

や、そりゃタイムは欲しい。
欲しいけど、それ以上に。


ちょっとでも妥協すれば、また。
この子はその背を掻き乱し、私を振るい落としにかかる。


ここまで来て、落とされてたまるかっての。


青信号を確認し、唇を噛み締める。
大きくマシンを左に振るフェイントモーションから交差点に突入。


速度を乗せたまま、左に振ったマシンを捻り込む様に右へと倒す。

 


「ッ…………く……ぅ!」

 

フロントタイヤが立てる、ズベズベと言う嫌な音に思わず声が出てしまう。

 

肝が冷え上がる。
フロントのグリップがイったら一巻の終わり。


でも、これ以上速度は落とせない。
落としたくない。

 

「はぁ、はぁ、はぁっ………………ぬぅっ!」

 

恐怖に打ち勝った自分を褒め称えることもなしに、再度ペダルを猛回転。
コーナーを目標速度で抜けたところで、直線の伸びが落ちたら意味が無い。


全てが徒労で終わってしまう。


まるでタイトロープダンシング。
や、違うね。


これはもう“ロデオ”の域だ。

 


「ン……………けほッ!」

 

ああ、いけない。
口内にたまった唾液の処理をミスって器官につまらせてしまった。


くだらない些細なミス。
しっかりしろ、私。

 


――――――ぺっ!

 


粘ついた唾液を吐き捨てる。
ちなみに水分を補給してる暇なんか今はない。


既に目の前に次の交差点が迫ってる。


沿う様に並ぶ旧道が、次の交差点で、この街道に吸収される。
大きく右に描くコーナー。旧道は左前方から交わる。


この変則的な交差点。


信号が赤なら身体を休められる。
時差式のここの信号は2分は青に戻らない。


その2分で充分だ。


私なら、それで充分回復できる。

 

でも、そうなんだよね。
こういう時はそうなんだ。

 

苦笑が漏れる。
今日何度目だろうか。

 

行け、と言っている。
この世界の全ての事象が私に行けと言っている。

 

輝かしいくらいの青信号。

 


「…………上等だよ」

 


右コーナーのアウト側に膨らむようにマシンを飛び込ませる。
そこから最小限の舵角で、ペダリング・オン。


そう。ここは最後の大型複合コーナー。
どうせ行くなら、立ち上がり重視で行ってやる。

 

「く……… おおおおおっ」

 


マシンを右に傾けたまま、全力でペダリング。
右のペダルと路面の空間はおそらく1センチ前後。


大丈夫。


私は怯まない。
この子はたわまない。


抜ける。
このまま。


全力で。

 

震え上がるような恐怖感を押さえつけて、左側端へと飛び込んでいく。
姿勢はそのまま。ペダリングもそのまま。


良いぞ。
このままセンターラインをかすめるようにして。

 

 

――――――――――――――ズリュ!

 

 


ズシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!

 

 


「……………ッ!!!」

 


何が起きたのか理解するまでの時間、それはほんの一瞬。
でも、その一瞬で全てが“台無し”になる。

 

フロントタイヤがセンターラインを踏んだ瞬間、フロントのグリップが瓦解した。


濡れていたんだ、ラインが。
こんなにも晴れていたのに。

 

渋滞にイラついたマナーの悪いドライバーが捨てたジュースか何か。
その糖分が乾かずに、センターラインの上でねっとりとこびりついていた。

 


――――――――――――――ズリュ!

 


フロントに遅れて、リアのグリップも瓦解する。

 

フロントタイヤがグリップを失ったり、戻ったりと散らかり出す。
ハンドルがバタバタと盛大に暴れだす。


リアタイヤは完全に滑ったまま、指向性を失っている。

 

 


…………だめだ。

 

 


こうなってしまったら、もう。

 

 

 

 


―――――――立て直せない。







 

 

 




 

フロントのグリップを散らかしながら、アウト側のガードレールにすっ飛んでいく。

 

もう、立て直せない。
でもだからと言って、全てをあきらめてしまうには。


まだ早すぎる。

                  すべ
まだ、いくつか“術”はある。

 

一番安全なのは、ここで転んでおくことだ。

 

マシンを投げ出して、しっかりと受け身をとって慎重に。
幸い後続車は渋滞のため、皆停車して事を見守ってる状態。


そのまま轢かれることはないだろうし。
マシンを当ててしまって事故を起こさせるようなこともないだろう。

 

だけど。


だけど。

 


………だけれどもッ!!

 

マシンを破損させて自走できなくなったらアウトだッ!
直してる時間なんてないッ!

それほどのマージンは稼げてないッ!
そもそもパーツが入手できないッ!!

 


わかってるッ!

 


自分でもわかってるよッ!

 

 

馬鹿なことだってッ!!

 

 

……でもッ!

 


行くか行かないかの選択はいつだってッ!!
私は胸を張って行く方を選びたいんだッ!!


君だってそうでしょうッッ!?
ディープ・ストライカーッ!!

 

戦わずに壊れるなんてッ!

 


そんなの、誇り高い君のプライドが許すハズがないッ!!

 


―――――ガッ
     ぎちん!

 

ペダルを踏み抜く!
右で、左で!

遮二無二、無様に!

 

―――――シャリシャリシャリシャリ………!

 

グリップを失ったリアタイヤの回転はペダリングのそれと加速が比例してくれない。

 

でも、構うもんか!
押し出すんだ、前へ!

 


―――――シャリシャリシャリシャリ………!

 


前後のタイヤを滑らせながらのペダリング。
マシンは横一色から縦方向のトラクションを徐々に得始める。

 

少しずつ姿勢を……!
立て、直して………!

 

ぐっ、と力を込めて。
ハンドルをブルホーンバーに握り直す。

 

ペダリングは止めない。
マシンは前後輪を滑らせたまま、コーナーのアウト側へ膨らんで行く。

 

止まらない。
止まらない。

 

滑りだしたアルミフレームは止まらない。

 


滑っていくその先には“道路標識”。
このままじゃモロにそれにヒットする。

 

 

大丈夫。
わかってる、そんなこと全て。

 


むしろ、狙うのは“そこ”だッ!

 

 

“道路標識に当たる”んじゃないッ!

 

 

“当 て る” ん だ よ ッ !!

 

 


―――――かちかちかち
―――――バチン……ジャキジャキジャキン!

 

 

ギアをロー側に3段すっ飛ばして加速に備える。
そうだ、備えるのは“打撃”じゃなくて“加速”。

 


一世一代の大勝負。
やってやろうじゃないの、コンチクショウ。

 

ペダリングを強めて行く。
滑りながらも、摩擦は横から縦へとその指向性を変化させていく。

 

そのままアウトに膨らんでいく私たち。
このまま失速したら、手前のガードレールに激突して吹っ飛ぶ。


だから今は無理くりタイヤを回して今のラインを維持して。
そのまま道路標識に自分を“当てて”。

 

その“反動で元のコースに戻る”んだ。

 


「く……っ!!」

 


とろけた視界に飛び込んでくる道路標識。
ものすごいスピードで。


断片的にフレーム落ちしながら。


無慈悲なまでに等速で距離を詰めてくる。

 


くそ………怖いっ。

 


心が悲鳴を上げる。
背中に冷たいものが走る。

 

 


――――だめだ、怯むなッ!!

 

 


胸の内を吐き出すように咳払いを一発。
脳みその中を一旦リセットする。

 

――――大丈夫。

 

行ける。
私たちなら行ける。


ぐっ、と奥歯を噛み締める。

 

変にビビってモロに当たるより、加速して鈍角に当てるんだ。
怯まない覚悟こそが、成功の鍵。


左前方に迫る道路標識に、狙って当てに行んだ。

 


―――――っ。

 

迫る標識。
角度をなるべく平行に近づけて。

 

勢いを殺すんじゃなくて。
跳ね返してベクトルを変える感じで。

 

標識に。

 

“当てに行く”んだ……ッ!

 

 

「覚悟決めた女子高生の肝っ玉、なめんなぁぁぁぁ!!!」

 


―――――カチ
―――――ギッ、ジャキン!

 


ギアを一段上げて、リアタイヤの回転を上げていく。
そのまま目をしっかりと見開いて、標識に突っ込む。

 


――――ばぁんッ!!!

 


金属板がたわむ音。

狙い通りに顔面を標識板部分に激突させる。
その瞬間も、目はしっかりと見開いたまま。

怯まずに突っ込んだおかげで角度は鈍角。
主に頬と唇の左端に灼熱の痛み。

 

でもそれは充分想定内の痛みだ。
というか痛がってる暇なんかない。

なんのためにここまでしたのか忘れるな、私。

 

それは、痛みを最小限に抑えるためなんかじゃないッ!

 

 

―――――ぐっ!

 

 

そのまま、左肩を標識に押し当ててッ!

 

 

―――――だんっ!!

 

 

肩で標識を押し返すッ!
アウトへと向いていた慣性が、かき消されてマシンの指向が前へと向き直るッ!

 

今だッ!

 

瞬間、利き足の左を捩じ込んで得た加速を利用してギアを……!

 

―――――カチ、カチ!
―――――ギッ、ジャキンジャキン!

 

2段ハイ側に跳ね飛ばす!
トルクを捨てて今はレブを取る!

 

グリップッ!
戻れ、戻れ、戻れェッ!!

 


―――――シャリシャリシャ……シャアアアアアアア!!!

 


よっし!
狙い通りに、リアタイヤがグリップを取り戻した!


フロントはすでにしっかり“路面を喰って”いる。
バランスは完璧に取り戻した。

 


「………どぉだ、コンチクショウ」

 


口の端を吊り上げて笑った瞬間、ねっとりと唇から垂れる一筋の生暖かい血。
気にも止めずにぺろりと舌で舐めとる。


なんだってんだ、こんなものが。
流血くらいでビビってたまるか。

 


なめんな、こちとら花の女子高生なんだぞ?

 


流血くらい“月に一度のアレ”で慣れっこだっての!

 


――――ぺッ!!

 


舐めとった血ごと唾を吐き捨てる。
九死に一生を得た。


や、これはそんなんじゃないな。


十死の結末を“刺し穿って貫いて掴みとった一生”、ってところかな。
へへ、なんていうか、そんな感じ。

 

ギアは元の通りに上げきった。
グリップも今じゃすっかり安定してる。


さぁ、せっかくの奮闘を無駄にしないためにも。
一気に戦闘速度に引き戻さないと、ね。

 

軽量な私ならではの武器。
そう、ダンシング。

 

何度でも立つって決めたんだ。
心を折られないように何度でも立ち上がって。

 

 

――――――がばっ!

 

 

速度を上げるって決めたんだッ!



 





 


―――――ずきんっ!!



「……きゃぅッッ!!!」







左の手首から感じた異常な痛み。

 

重度の虫歯に氷水を垂らしたようなその痛み。
じんわりと額に脂汗が浮き上がる。

 

しっかりとハンドルを握りしめてた事が裏目に出た。
肩や顔じゃなくて、よりによって利き手の手首か。


とくに腫れてはいないから、骨はイってないと思うけど。
今が痛みのピークで、徐々に楽になっていくと信じたい。


例えば、さっきのは不意打ちだから痛かっただけで、
今もう一度立ち上がれば、そんなでもない痛みで拍子抜けするとか。



 

………ダンシング。

 


――――――がばっ!

 

 

「きゃうあぅぅッッ!!」

 


噛み締めた奥歯から、こぼれ落ちる悲鳴。
希望的観測がガラガラと崩れ落ちて行く。


ムリだ、完全にやっちゃったみたい。
すぐさまお医者さんに診てもらわなければアウトとか言うほどではないけれど。
じっとしてれば市販の湿布薬で、大丈夫そうな感じではあるけれど。

 

だけどもう。
ダンシングはできそうもない。

 

それが今は何よりも大問題。
コンピュータが示す速度は28km/h。


思わず舌打ちしてしまう。


手首がイった状態のシッティングじゃ、これ以上の速度は無理だ。
や、たとえ手首が万全だとしても。

私の貧弱なシッティングでこれ以上の加速は、一般道の直線じゃ長さが足りない。


シッティングでゴリ押すには、私の場合。
脚力はもちろん、上半身の固定力が圧倒的に足りないんだ。

 

それを補うための武器がダンシング。
平地では唯一の武器であるそれを今失った。

 

 

―――――――くすくす、と。

 

 

どこかで神様があざ笑う声が聞こえた気がした。


 



 




集中して、耳を澄ます。



………あぁ、違う違う。
そっちの笑い声はどうでも良くて。


心の奥から、もっと暖かい声が響いてくるんだ。


それは優しくて、懐かしくて。
4月の草原に降り注ぐお陽さまの様に暖かくて。




――――― 私を包み込むような、そんな声。


 

ほら、聞こえない?
聞こえるでしょ?


こんなにたくさん。
今はもう、はっきりと。

 


心に響いて、何度も何度も反射するような綺麗な声が。
コンサートホールの一番良い席で聴くような、大きな大きな優しい声が。

 





 

――――――ほらっ!


 









  
          「がんばれっ!!」                 
                                「がんばれっ!がんばれっ!!」     
                                
             「お姉ちゃん、がんばれぇっ!」


「がんばれぇぇぇっ!!!!」
                                    「がんばってくださいっ!」


                「頼んだわ、やまと………っ!!」  
         

 「がんばるのよッ!」                          「行っけェ!そうだッ!ガンバレッ!」

                                         「がんばってェッ!」


                            「がんばれがんばれ、お嬢ちゃんがんばれっ!!」

          「がんばれ!がんばれっ!負けるなぁっ!」

 








――――――ぶわっ!



全身が総毛立つ。

 

そう、神様の意地悪な笑い声なんか。
一人の「頼んだ」と、大勢の「がんばれ!」の声で、完膚なきまでに掻き消された。

 

そういうことだよ、神様。
私を舐めてもらっちゃ困るんだよ。


託されているんだよ、私は。
届けなきゃいけないんだよ。


こんなとこで、怯んでいられないんだよ


ていうか何?


何を勝ち誇ってにやけてるんだっての。
ひょっとして諦めるとでも思ったわけ?

それともこの前みたいに、間に合わないと知りながらボロボロになって死力を尽くす、
私の姿がまた見られるとか思っちゃったわけ?

 

馬鹿にしないで欲しいね。




 

―――――――きゅっ。



 

ダウンヒルバーを軽く握る。
軽くなら痛みはない。



それはわかってた話。



 

―――――――ぐっ。



 

肘あてにガッチリ体重を掛けて上半身をしっかりとホールド。
パッドに当てた肘で体重を支え、手首は軽くダウンヒルバー先端に添えるように置くだけ。

 

………よぉし、思ったとおりだ。
これなら手首に痛みは感じない。

 

つまり手首を極力使わず、パッドに乗せた肘と、
サドルを挟み込んだ太ももで固定すれば痛くない。


これで上半身はがっちり固定できる。

 


――――そう。
――――そういうこと。

 


“速度を乗せてからのエアロモード”じゃなくて、
“最初からこの状態で加速”してやればいいだけの話だ。

 

つまり繰り出すのは、ディープ・ストライカー “エアロブーストモード”。

 


――――無理だって?

 

――――そんなことできないって?

 

 

「できるよ」

 

「私ならできるよ」

 


どれだけの想いを託されたと思ってる。
どれだけの決意でここまで来たと思ってる。

 

過去に、一度心を折られた坂を歯を食いしばって登りきった。
また、泣きそうになりながら苦手な下りを、全力で下りきった。


昔コテンパンにのされたマシンと今こうしてロデオに興じてる。

 

         ――――ばちんっ!――――
そして“みんなで力を合わせて、不可能めいた挑戦に挑んだ”。

 

              ――――ばちんっ!――――
“目を閉じて思い出すだけで涙があふれそうになるような信頼を、いっぱいもらった”。

 

     ――――ばちんっ!――――
“いつか必ず返すんだと、そう強く心に決めた”。

 


「それはきっと」
「“今”なんだ」

 


――――ばちんっ!

 

――――ばちんばちんっ!

 

――――ばちんばちんっばちんばちんっ!!

 


頭の奥底でシナプスが炸裂音を立てて繋がっていくのを感じる。


溢れていく想い。
こんなにも尊い。


今、全てが繋がっていく。

 

もう、負ける気がしない。
今の私はどんなことだってできる。

 

今なら、空だって飛んでみせる。
軽くコンビニでも行くみたいに。




「ち ょ っ と 空 飛 ん で く る !」 っ て ね。

 


そう、飛べる。
この子となら、飛べる。

 

行こう、ディープ・ストライカー。
君に関する約束も、今ようやく思い出せた。

 

それも届けないといけないんだ、“私たち”は。

 

おしりをサドルに引っ掛けるようにシートポジションを固定して。
パッドに肘を押し付けるようにして上半身を固定して。


………“エンジン”をしっかりとマウントした状態で。

 

 

この“両脚”で。

 

 

掛け値なしの全力で。
 

 

 

―――――託された想いで、二つのペダルをただ踏み抜く。

 






 

「さぁ、行こうッ!ディープ・ストライカーッ!!」

 


 


 





クランクが唸る。

ペダルが踊り狂う。



足掻きに足掻いて幾星霜。

そうして辿り着いた、私たちの完成形。

 

そうして、私たちは空気を切り裂き。

 


―――――今、“全てを穿つ”。

 


大丈夫、わかってる。


ちゃんと“思い出した”から。


溢れだす“記憶”を手繰り寄せて。


 

あの時の声を頼りに。
あの時のようにひた走る。

 

姿勢は低く。
体は左右にブレさせず。

上体を固定させたまま、脚力の全てをロスなくペダルへと叩きこむ。


顔は下げない。
遠く見据える。


そうして気道を確保する。


つまり呼吸は止めない。
一瞬の無酸素運動に頼るな。


規則正しく酸素を取り込み、心肺機能の維持を放棄しない。
酸素を体内で暴発させて、エネルギーの燃焼を継続させろ。


かと言って漫然とペダルを回さない。
常にフリーの回転を意識する。


サーフェイスから目線を切るな。


路面は生き物なんだ。
常に最新のインフォーメーションを見落とすな。


そして負けるな。
誰よりも手強い自分自身に負けるな。


そうすることで、その他全ての些細なことは全て。
気持ち良いくらいにクリアーできるんだから。

 

ペダルを回すたびに、さらに溢れ出していく記憶。
その度に頭の中で“ばちんっ!”と弾ける炸裂音。

 

アルミフレームをブン回す全ての知識と経験。
技術論、並びに精神論根性論。


そう、“その全てを私は知って”いる。

 

いや、正しくは“知っていた”。

 

あの時の私をここまで導いてくれたあの声が、変わらず今の私を。
限界のその一つ先で疾走させてくれる。

 


――――――――………………ッ!

 


これが本当のディープ・ストライカー。
これこそが完成形。


ようやく出会えた“本当の君”。


だけどまだ止まらない。
まだまだ行ける。


これは“完成形”であって、“最終形”じゃあない。
そこで満足しちゃったら、私は“あの時の私”に追いついて満足してるだけ。


そう、だから私はまだ足掻くことをやめない。


私は、その“先へ”行くことをやめない。

 

アルミフレームをブン回す知識があるのなら。


それに答えるのは純粋に“今の私”の経験値。


知っていれば成立する知識と。
           それだけでは成立しない経験。



“あの時の私”と、“この瞬間の私”。



負けたくない。


負けたくないよ、こんなにも。



 


「………負けたくないよ、“あの時の私”に」

 

 

だってそうじゃない?


なんの因果か、またこうして出会って“託された1枚のチケット”と。
私を心から応援してくれた“たくさんの声援”。


そして“ディープ・ストライカー”。


この尊い“贈り物”は。

 


―――――“今の私”だけの“宝物”なんだから。



 
だから負けない。
      絶対、私は負けない。


どんなことにも、負けない。

 


挑む。

    超える。


乗り越える。


  そして刺し穿つ。




――――――かちっ!
      ジャ…ッ、シャキン!!



ギアを更に弾き飛ばして、速度を上げていく。


“ダウンヒルばりのギア比”を、全力でブン回す。
『無限遠点へ、高速の疾走は続く』とばかりに。


いくらなんでもやりすぎだって?
このままじゃ身体がオーバーヒートするって?


関係ないよ、そんなこと。
もうゴールの映画館までは数キロちょい。


ここでバテるようなやわな鍛え方はしてないよ。
というかここでスパートしないでどうするんだっての。


追うんだよ、全力で。


ここまで来たら、もう維持じゃなくて追うんだよ。
最後の一絞りまで力を尽くして追うんだ


つまり、それは単純に。

“ペダルを回せ!”ってこと。


自転車の世界は、結局のトコロ“それ”なんだ。

どれだけ高額なマシンに乗っていようが関係ない。


結局のトコロ、ペダルを回したヤツが速い。


そして強い。


何よりも尊い。



 

――――――ぎゅっ!


 

両腕に力を込める。
手首に負担を掛けずに力を込めるコツなら、もうすでに掴んでる。


だから、もう大丈夫。
もっと先を目指して。


君を信じて。

 

私は踏む。
ペダルを回す。

 

ねぇ、ディープ・ストライカー。


お願いだよ。

妥協だけはしないで。


最後の瞬間まで、私を見定めて。

それで少しでも不甲斐なさを感じたら。


遠慮無く、私を振るい落としてちょうだい。


それこそが私たちのあるべき姿。


君と解り合うことができる。
ただ一つの付き合い方なんだ。


私は君にふさわしい乗り子とは言えないけれど。


“最後”くらいは、きっちり決めるよ。


だから、行こう。


行ける限りの全力で。



 


「………よしッ!」


 

覚悟は充分。
恐れるものは何もない。


つーことで、御託はもう充分だ。
後は景気よくペダル回して行こうか!

 

“ペダルを回す”………、か。



なーんかそれじゃ気合の入りが弱いな。
ん、そうだね。それじゃあこうしよう。

 



―――――景気よくッ!!


 

 


「ペ ダ ル “舞 わ し て”行 く ぞ ォ ッ !!」

 

 


 




――――――ペダルが舞う。



文字の通りにペダルが舞う。



その舞に魅入られたホイールは、空気を引ったくるように絡めとり、切り刻んで後方へ投げ飛ばす。



ここに来てようやく。

紆余曲折を経て、ようやく私たちは本当の意味で“深淵を刺し穿つ者”と化す。



完成された形を踏み越えて。
更にもう一歩だけ進んだ姿。



“前の私”を超えた“今の私”。



それは誇らしくもあり。
ほんの少しだけ寂しくもあり。



その全ての感情を抱きしめて。
この瞬間を慈しむ。




―――――――ああ、たまらないな。





時間がゆっくり流れていくように感じる。


感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていく。


体が軽い。
視界も明瞭に冴え渡っていく。


四肢は猛り、指先から電撃が迸りそうなほど。


この状態。
漫画や映画なら安易に“覚醒”などと表現されるのだろう。

 


―――――ペッ!

 


唾を吐き捨てる。


はは、覚醒?
笑わせんな。


というか、人間舐めるな。
人はちょっと覚悟決めたくらいで、唐突に強くなったりは出来ないんだよ。

 

これは覚醒なんて陳腐なものじゃない。

 

退屈極まりない基礎練習の繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返しの果てに掴み取った
私の心と身体の、“純然たる強さの証”だッ!!



どーだ、見たか神様ッ!!



よーく目を見開いて記憶しろッ!
そしてもう二度と忘れるなッ!!

 

これが
これこそが“永森やまと”だ

 

あんたが見てきた“永森やまと”がどんなヤツだったかは、私は知らない
だけど、私は“常に”こうなんだ


これまでも
これからも
!!

 


だから

 


今後私に

 


いや、“私たち”に!!

 


ケンカをふっかけるつもりなら、その辺を熟考して
あんたも掛け値なしの全力で挑んでこい
!!

 







――――――――――――

――――――――――――

――――――――――――


 

規則正しく植栽された街路樹の間をゆっくりと。
往来する人達と同じ速度で抜けて行く。


信号を二つ抜けた先を左折。
それでようやく、距離的には“ゴール”。

 

時間は、1時43分。



開場の1時55分まで10分以上の余裕。
この上ないほどマージンを稼いだ。


ありがとう、ディープ・ストライカー。
君のおかげだよ。


最後まで、妥協しないでくれてありがとう。
最高に楽しかったよ。

 

―――――かち。

 

ステムを甘噛みして労をねぎらう。
私たちの信頼の形はこれで良い。

 

「さぁて、最後の試練はここからだね」

 

ここいらで一番大きなシネコンがそびえ立つ。
ごった返す、人、人、人。


携帯でアスカ君に連絡入れてみるしかないね、さすがにこれは。

 

ポケットからスマートフォンを取り出そうとして。
数秒の硬直のあと、ポケットへそれを仕舞う。




―――――見つけられる、かな。




開場まで、まだ10分以上ある。
他でもない私が稼いだマージン。


この時間は神様から強奪した、私だけの“ボーナスステージ”。


この人だかりの中から、アスカ君を探せるだろうか。
私はこの中から彼を見つけられるだろうか。

2分で良い。
それでだめならあきらめて、素直に電話を掛ける。

 

挑んでも良いよね。
これくらいのわがままは良いよね。

 

―――――すっ。

 

静かに目を閉じて。
ゆっくりと深呼吸。

 

―――――ぱっ。

 

目を開いて、視界の隅々まで意識を集中させる。
左から右へと、何度も往復させながら。

 

自分の想いを確かめるように。




「あ………っ」




思わず声が漏れる。
どきり、と心臓が跳ねる。

 

――――あそこだ。

 

小さな池の前のベンチ。

足を組んで座ってる。
携帯を弄ってる。


見間違う訳もない。

 

………アスカ君だ。

 

 

―――――はは。

 


脱力して、苦笑が溢れてしまう。


あーもぅ、なんだかなぁ。
なんで私は一瞬で見つけちゃうかな。


それって完璧にアレじゃない。

 

私って、“くやしいくらいアスカ君に惚れてる”ってことじゃない。

 


かぁっと頬が染まるのが自分でわかってしまう。
人差し指で撫でるように唇に触れて、はっと我に返ってパっと離す。

 

んんッ、と咳払い。

 

今はそういうのは後回し。
今日はこれで充分に満足。

こっから先は、また今度会った時にでも、ね。


うんうん。
先延ばしじゃないだけ、随分今日の私は“攻めて”いると思う。




「おーい、アスカ君っ!」

 


大きな声で呼んで、手をふるふると振る。
こちらに気づいたアスカ君も、手を振って走ってくる。



「なんだなんだ、どーした永森こんなところで?」
「ひょっとしてお前も“カルナザル戦記”マニアか?」

 

や、さすがにそれはない。
その推測はオカシイ。

 

「汗だくの身体で映画鑑賞する趣味は私にはないですー」

 

しかめっ面でごちる。
そんな私を見て笑う彼。

 

「あれ、唇切れてる。どっかでぶつけたか?」
「ん、だいじょぶ。てゆーか顔近いってばw」

 

―――――あー、くそぅw
―――――まるっきり向こうのペースだw

 

屈託のない顔で笑う彼を見て。
あの張り詰めた緊張の世界から、日常へと戻ってきたことを実感する。




「……自転車で来たのか?すごいな!」


「って、何だこのタイヤほっせー!!」


「な、ちょっと乗ってみてもいいか?」


「うわ、軽いな!小指で持ち上がるぞっ、このマシン!」


「手元の変速気持ちーな!はは、これすっごく楽しい!」




くるくると、虹色に変わる表情。
いたずらっぽく笑う、この笑顔。


アルト・サックスみたいな優しい低めの声。

 

陽に照らされても色の変わらない黒髪のクセッ毛。

切れ長で鋭いけど、どこか優しい感じのする目。

 

見つめてると吸い込まれそうな赤い瞳。

 


今、心の底から思う。
私は変わったな、と。

 


前は、どちらかと言うとアスカ君の非日常的な部分に魅力を感じてた気がする。
アスカ君は私の日常的な部分に興味を示してくれて、それで会話が成り立ってた気がする。


そうして今。


アスカ君の非日常的な部分に触発されて、どんどん私が非日常的に攻めこんでいって。
たぶん彼も私の日常的な部分に感化されて、どんどん日常的な時間の過ごし方を楽しめるようになっていって。


この瞬間、私はアスカ君の笑顔に。
胸の奥が焦げるような、日常的な安らぎを感じた。


最初の真逆の印象を。

アスカ君から感じた。




………これって良いことなのかな?




わかんないや。
わかんないけど、でも。

 

それでも今とても幸せな気分だから。
これはこれで満足だったりもするんだ。

 

 




 

「なーるほど、だからかがみのヤツ電話繋がらないわけだなコンチクショーw」

 

最初、チケットを渡されてキョトンとしてたアスカ君だけど、
話の大筋を聞いたら手を叩いて爆笑した。


「アイツって、自分のコト以外に世話やこうとするといっつもチョンボするんだよw」
「いつも通りの平常運転で逆にほっとするぞコレwはははw」

 

ふーん、それは随分と仲のよろしいことで。



そう言いかけたところで、それは託された声を台無しにしてしまうし。
何より言ったところで最高のキョトン顔をされるに決まってるから必死に我慢する。

 


「………それよりアスカ君、時間だいじょぶ?」

 

そろそろ2時だよ?と時計に目くばせする。
ここまで来て話し込んで映画を見逃すなんて、マヌケにもほどがある。

 

「あぁ、最初の15分間は予告編無双だから大丈夫大丈夫」
「俺、予告編見るとそっちの内容が気になっちゃって、本編に集中できなくなるクチだからさ」

 

おお、何だか割とシンパシーを覚える意見。
わかるよ、その感覚。

少数派だと思ってただけに、ちょっと嬉しくて頬が緩んでしまう。


 





「ところで、永森。俺、思ったんだが」


「………ん、え?な、なに?」



不意を突かれて声が思いっきり裏返る。
唐突な真顔に、思わずどきりと身構えてしまう。

 


「…………お前の携帯で、俺に電話すれば良かったんじゃないか?」

 


「それに試写会の券には通し番号降られてるし、ホラここの8桁の数字」

「通し番号と、予約の時記載したかがみの電話番号とか言えば券なしでも入れたような……?」

 

 


――――――――――はい?

 

 


言葉を失った。


なにそれ、そんな解決法があったの?

 

いや、ていうかソモソモ。
私がアスカ君に電話するという“アタリマエの選択肢”をなぜ見落とした私。


それが思いつきさえすれば、いくらでも発展性のある考えあったゾ?
例えば、アスカ君がバイクでチケット取りに来るとか。

車じゃ無理だけどバイクなら余裕で往復できるし。

 

―――――あ、気づいてる。



バイクのコト気づいてるけど、私に気を使って、
“うん、それは言わないでおこう”みたいなを顔してる。

 


うー…………………。




くやしい。
恥ずかしい。

 

そうして思い知る。

 

やっぱり私は。
“この人のコトが、こんなにも好きなんだ”と。

 

 

「…………むーかーつーくーっ!」

 

 

照れ隠しに、げしげしと脛にキック。

 

 

「ちょ、やめ……っw、痛いからお前の蹴りっww」

 



顔はしばらく上げられそうもない。
きっとハの字眉毛で顔真っ赤状態。

鏡なんか見なくてもわかってしまうくらい、今の私はやばい表情しちゃってる。




―――――“友達がしちゃいけない顔”になっちゃってる。




だから、彼の笑い声に余裕がなくなるまで、私はえいえいと頬を染めて蹴り続けた。
ごめんね、と心で詫びながら。耳まで真っ赤にして。

 



 

 


「………一緒に観てくか?」

 


別れ際に、アスカ君がふとそんな事をつぶやいた。

もう1枚のチケットに充てがわれた通し番号。
それを今知る術はないけれど、きっと窓口で事情を話せば中に入れてもらえると思う。



でも私は。


迷わない。



「…………ううん、今日はやめとく。また今度誘って」

 

ふるふると首を振って、私はそう答える。

 


「そっか、じゃまた今度な」

「うん、また今度」

 


そんな日が来るのかどうか。
それはわからないけれど、今はこれで良い。




――――ううん、今は“これが良い”

 


だって、託されたチケットは“1枚だけ”だから

 

私がかがみさんに託されたのは “アスカ君のチケット”。

 

そうなんだ。
あの人は、アスカ君のために。

 

 

まず一番最初に“かがみさんがアスカ君と映画を観る選択肢”をバッサリと切り捨てた。

 

 

そこに私は心から尊敬した。
どうしても力になりたくなった。


だからこそ私は、あの人の想いを汚さない。





「……じゃ、そろそろ行ってくる」


「……うん、いってらっしゃい」




そう言ってシネコンのエントラスへ駆け出す彼と。



自転車を押して彼とは反対側の門へと歩き出す私。



あまりにも素っ気ない、私たちの別れ際。
でも、今の私はこれで良いんだ。



そう。
今日の私はかがみさんの気高い想いを届けに来ただけ。
だから私の想いが溢れそうになっても。



必死に心に蓋をして、いつものように笑ってさよならする。

 

………そのつもりでここまで来たんだもん。





 

だから、これで良い。
きっと、これが良い。

 

もちろん後悔なんかない。
凛と胸を張って、帰れる。

 

ちゃんとやりきれたのは、暖かいみんなの声のおかげ。

 

たくさんのがんばれの声のおかげ。

 

いっぱい、いっぱい、貰った。
涙がこぼれそうになるような想いを、たくさん貰った。

 


その想いに。
私は、最後まで凛とした態度で彼とさよならすることで応える。

 

これが私なりの、みんなの想いの届け方。
不器用だけど、私なりに頑張ってみたよ。

 

どうだったかな、みんな。

 

私、ちゃんと出来てたかな。

 

 

…………出来てると良いな。

 

 

ふと時計に目をやれば、もう2時半になろうとしてることに気づく。


うん、そうだね。
私の挑戦は終わったんだ。

 

この上ない形で、私は勝った。

 

あとはそう。
胸を張って、このまま帰ろう。

 

ハンドルに手を。
右足をビンディングに。

 

左足で地を蹴って。
その足も、すっとサドルを跨いでビンディングに。

流れるような一連の動作。

 

へへ、お互いだいぶ慣れたね、私たちも。

 


ディープ・ストライカー。
帰りもよろしく。

 

で、お願いなんだけど。

 

できれば、その、ね。

 

………帰りは色々妥協してくれると嬉しいんだけど、なぁ?

 

 

―――――ガコン!

 


「あきゃぅっ!!」

 


段差の乗り越えで体重移動をミスってしまい、突き上げた衝撃に悲鳴をあげる。
ほんっとに底意地の悪いマシンだね、君はw

 

わかったってば。

 

帰りもいっちょやってみるよ。
できる限りの全力で、ね。


結局のトコロ、君の乗り手として私はふさわしくなかったけれど。



―――――“今は”、できる限りの全力を尽くすよ。




 



 

「………ディープ・ストライカー」
「この後、君を紹介しなきゃだね」

 


ささやくようにつぶやく。
胸に駆け巡る、郷愁にも似た寂しさ。

 

あの人が私を見送ってから1時間半。
きっとあの人は座ることもせずに、立って私を待っているんだろう。

 

そういう人なんだ、かがみさんは。

 


“覚えてる”かな?
“思い出して”くれるかな?

 


“あの時”、この子の写真を携帯で見て、かがみさんが言ってくれた言葉。




………そして“その後、二人で交わした約束”を。

 


どこまでも強くて優しいかがみさんと。
どこまでも誇り高くまっすぐなこの子。

 


――――この二人が“ライバル”に なるのか。
――――今度は私が“刺し穿たれる側”になるのか。

 


………ははは、勝てる気がしないよ。




でも、なんだか楽しみでもある。
最強の組み合わせに挑むのは、他でもない私とLOOK。


      ディープ・ストライカー
この子が“深淵を刺し穿つ者”なら、LOOKは何て呼ぶのが良いのかな。

 

そうだな、この子が直線専用機というのなら。
きっとLOOKはヒルクライム専用機。


この子がロケットブースター装備のマシンだとしたら。
LOOKは翼をはためかせ、天を駆け上がるマシン。

 

そういうセンスは私にはないから。
きっと誰かが、ふとした時に呼んでくれたその名前が。


LOOKの名前になるんだろうなぁ。
うん、そのへんも結構楽しみだ。

 

 

――――――すぅ。

 

 

大きく息を吸い込む。

 

あの人の待つ駅前まで30キロ。
きっと往路の倍の時間が掛かってしまうだろうけど、頑張ろう。

 

だって、そうじゃない?


負けたくないし。
色んなことに。

 

 

そう、私は負けない。
絶対、負けないぞ。

 

 

「恋も、自転車もっ!」

 


突き上げた拳。
痛めた左手首が、ずきんと疼く。

 

でも、負けない。
にかっと笑って、私はマシンと一体となる。

 

そんな私を誰かが見ていてくれて。

 


――――がんばれ!

 

 

と、声を掛けてくれる。
へへ、それがこんなにも嬉しい。

 

だから、私も返す。

 


「……きっと、届けてみせるよ!」




胸を張って。
どこまでも私らしく。


そう、私らしく。
どこまでも、“永森やまと”でありつづけよう。

 

これまでも、そうであったように。

 

これからも、胸を張ってあり続ける。







――――――と言うわけで、“今後ともよろしく”。






メッセージは微笑みと共に。







“不器用な私”に愛をこめて。


 

 



永森劇場APPEND エピソード1.2
愛 を 私 に : I walk 渡しに

Thank you for your time.



                               


                         

project TEAM FLYDAY 
Sinse             07/25/2006
Last Update    05/06/2012